
或る女性を退行催眠にかけ、その過去生の一つである"スディー"という名の律法学者としての生涯から、クムラン共同体とエッセネ派ならびにイエス(正確には"イエシュア"と発音するらしい)の生涯について膨大な量の情報を引き出しており、クムランの住居施設や図書館の内部の様子、共同体の人々の暮らしぶりが詳細に語られる。当時10代のイエスとヨハネに律法学を教える場面の描写にも臨場感があって印象的。ちょうど700ページあり、辞書のように分厚いが年末年始に興味深く読了した。
どの宗教・宗派にも属さぬ者だが、予てより問題意識を持っていたのは、イエスが磔刑になった理由であった。これについて"スディー"が語ったことを備忘録的に記しておこう。
「おそらくいろいろな要因が重なり合ったことで『人間が犯した罪のために死んだ』といわれているのだろう。イエシュアは世間から嘲笑され、屈辱を味わうために磔にされたのだ。嘲笑や屈辱などを乗り越えて、無我の境地に到達するためだ。我々もイエシュア同様に無我の境地に達することができるということを示すためだった。また、人々に示すだけでなく、それを体験するのがイエシュア自身の学びでもあった。イエシュアは弟子や民衆が思っているほど完璧な存在ではなかった。磔刑になることでイエシュアは自分に課せられていた罪を償ったのだ。そして、世間に対し、自分たちに課せられた罪を償うことに恐れを抱く必要はないということを示したのだ。罪の代償を支払うことで、我々にも超越できるということを。(中略)他人が犯した罪のためにイエシュアが死んだわけではない。自分の罪の代償は自分で払うだけだ。今回の人生で代償を払えなければ、来世で払うことになる。もしくは来来世かもしれない。いずれにせよ、だれかを傷つけた罪の代償は、最終的に自分で刈り取らなければならないのだ。(中略)イエシュアは神のごとく崇拝する価値のある存在ではある。もうその域に達している。イエシュアは我が身をもってそのことを証明した。たしかにイエシュアは驚くべき存在ではあるが、イエシュアのことを闇雲に崇めてはならない。また、イエシュアのことを神格化してもいけない。我々も神の一部であるからだ。」
訳者あとがきにあるように、こうした書物を紐解くことになったのも何かの縁であるに相違ない。因果の連鎖が水面下に隠れているだけのことで、この世に偶然なるものは何ひとつ無いからだ。
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