由なし事

I AM THAT 私は在る

I AM THAT 私は在る
我は其れなり ー 銀文字で刷られた玄妙なアフォリズムを最初に目にしたとき、むんずと大きな掌で肩を掴みながら呼び掛けられたような錯覚を覚えたのが、いまから約一年半前のこと。程なくしてコンディション良好な初版本を入手できたのも、やはり縁というものか。

「其れ」とは「彼」や「彼女」といった人称代名詞で言い表しようのない何者か。身体および思考・感情の習慣の束との同一化を停めた無碍なるもの、生も死も始まりも終わりもない「其れ」そのもの、即ち真我を実現した生き証人、ニサルガダッタ・マハラジ師との対話集だ。

"握一点、開無限"の言葉通り、幾千の言葉を以って語られるのは煎じ詰めれば唯一の理のみ。さりとて分量は多く、気軽に読み流せる内容でもない。実際、昨年の初夏に読み始め、一日一話のペースで読み進め、幾度か中断を挟んで先ごろ漸く読了した。慣れない読者には不可解きわまりない禅問答が延々と続くかに思えそう。

何者にも自己同一化せず、時間と空間の織りなす物語に巻き込まれることもなく、ただ静かに「在る」ことを彼は諄々と説く。そこに目的などというものはない。「在る」という言葉には自ずと時間が内在するが、脳神経が巧緻に映し出す幻想たる時間からも自由自在となった者が「其れ」つまり大元の「わたし」ということ。

<真我の実現>に具体的な修練の方途はない。必要条件があるとすれば”愚直さ”かもしれない。生半可な知性は却って障害になる。それは予期せぬ”恩寵”のみに依って齎されるだろう。「啐啄同時」という禅語でも表現されていること。それは成るべくして成る。なにもかもが劫初よりの定め。一切は在るがままで完全無欠。

真夏の日盛りの午后、喧しい蝉時雨の内奥に無窮の静寂が横たわり、遍く森羅万象、いのちの一切を包容するのを空畏ろしさの裡に瞥見することがある。現象=分離が起きるのは畢竟われわれの中でだけ。静寂・・中心も外縁もない「無」・・に己れを預け、たまゆらの世界という夢から戯れにでも目醒めてみようか。
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